Macintoshのおはなし・そのいち

まえふり

 はじめて僕が「マック」という言葉をコンピューター雑誌で見た時、「マクドナルドブランドのパソコンが有るのか」と少々タダナラヌ気配を感じつつ「このウスラバカが!」というケーベツの眼差しでやや斜に構えた。その後書店で「MacPower」という雑誌の創刊号を見つけ「ああ、ウスラバカの専門誌が出てる。ふざけやがって」と、また斜に構えてしまったのであった。

PC-6001そしてMS-DOS

 僕がはじめてパソコンを触ったのは中学生の時(だったとおもう)。タマラナク欲しくて「この先、お小遣いもお年玉もいらんから買ってくれ!」と親にせがんだ。値段は89,800円だったと思うが中学生にはトンデモナイ高額商品で、親も「フザケンナ」的態度でしばらくは首を縦には振らなかった。ある日親父が「買ってきたぞ」とわめきながら僕の部屋に入ってきた。どうやら親父は親父で「マイコンとは何であるか」などを調べたのであろう。「ゲームやるぞげえむげえむ」とわめきながらコンポジットケーブルを繋ぎ、データレコーダー(当時はソフトはカセットテープに入っていた)を繋ぐ。そこには緑色のBASICの画面が広がった。前知識として僕はすがやみつるの漫画でPC-6001の使い方をすでに頭に入れていたので、どんどんと説明書を読まずに動かした。親はそれを見て「オマエ天才じゃないか」と言った。当時はあのキーボードをトントンとさわれるだけで「天才」および「ネクラ」よばわりされたものだ。

 通称「ベーマガ」と呼ばれていた「BASICマガジン」というプログラムのダンプリストの載った本からプログラムを打ち込み、動かすのが大体の使い方だった。もちろん数社のソフトウエア会社からカセットに入ったゲーム等も販売されていたが、とにかく雑誌を買ってきて打ち込めば「ゲーム」が楽しめたのである。自分でいくつかテキスト方式のアドベンチャーゲーム等も作ったりしたが、作った本人がプレイしても答えがわかっているので、あまり面白くなかった。

 そのころ同級生の秦野君(彼は現在プロバイダ業等を営むジンオフィスサービスの代表)と知り合い、PC-6001を持っていることを知り、周りにパソコンのことを判ってるヤツがいた事に感動し、それ以来今日まであーだこうだと言い合う親友である。そんな彼がある日「ゲーム作って一儲けしよう」などという凄い事を言うので、「うんうんうんうん」と即座に頷いて製作に取りかかった。しかし、グラフィックを方眼グラフに描いたりIF文を並べたりした程度で結局完成には至らなかった。あの頃のパソコン使いは誰でも一度は「ひとやまあてる」ことを夢見たと思う。ある日、秦野君の家にPC-8801(だったと思う)が来た。PC-6001の親分的存在で、その後のPC-9801シリーズに繋がる「大人」のマシンだった。本体を見ただけで感動し、涙が出そうになった。「一生付いていきます」と言ったか言わなかったかは定かではないけれど、何度も秦野君の家に遊びに行ったのを覚えている。

 高校2年のときPC-9801VX21という、あこがれだったマシンを買った。基本のシステムはMS-DOSというもので、記憶装置もフロッピーが付いていて「みなさぁーん、とにかくこれがいいんです。これしかないんです」的なシェアを誇るNEC天国時代の、まさに王道を行くマシンであった。同時期にアマチュア無線の免許も取った。秦野君に感化されて取得したのだけれど、本屋の問題集を丸暗記していったら簡単に受かった。周りの仲間も次々と免許を取り、ちょっとしたムセンブームが僕の周りで起きていた。学校の試験が近くなると、当時あまり使われていなかった430MHz帯で問題を出し合ったりして便利に使っていた。

 そんな事をやっていたある日、イイヅカクンというセーネンと知り合った。セーネンと言っても1学年下なだけだから、セーネンという呼び方は不適当かもしれないが、とにかく僕の印象では「イイヅカセーネン」なのである。はじめて電波で話をしたとき、僕と同じ波長を感じた。脳味噌の中身は彼の方が優れていると感じたが、何か同じような匂いがした。その後、無線を使ったパケット通信にハマっていったのだが、ここでイイヅカセーネンにはたくさんの事を教わった。パケット通信によって無線・パソコン好きのオッサン集団とも知り合いになり、現在の僕の「通信好き」のベースが着実にでき上がっていった。

 ここまで読んだ方は恐らく「ネクラな青春時代だったのねぇ」などと感じるのが普通であろうけど、中学時代は寝ても覚めてもサッカーに明け暮れる丸坊主少年だった。「とにかく全道大会へ行こうぜぇ」などと汗を流しており、念願の全道大会行きも恥ずかしながら僕の一蹴りで決まった。高校に入ってからは、いわゆるサボリマンと化し独断と偏見に充ちた課外授業?ばかりの日々が続いた。山岳部のブチョーなどというものもやってはいたが、3年になるとますますサボリマンと化し野山を駆けずりまわっていた(ホントカヨ)。

 高校に入ってからもサッカーを続けるつもりでいたのだけれど膝に水が溜まり、さらに膝の軟骨が隆起して痛みが走るようになった。さらに視力の低下。中学時代にすでに右・左とも0.1になってしまっており、夕方の練習などは殆ど感でボールを蹴っていた。サッカーの試合にはメガネをかけて出るのは危険であるし、周りのプレイヤーにも危険がおよぶ可能性が有る。中学時代のサッカー部監督・館山先生に何度も相談して結局断念することになった。僕の視力が良くてあのままサッカーを続けられたら....もしかしたら。いや、人生に「もしか」ってのはないんだよね。

 で、話は98を買った辺りへ戻る。しばらくの間、違法コピーの一太郎およびまいとーくなどのソフトウエアで遊んでいた。そうこうするうちMS-DOSというのを理解していくと面白そうだという事になり、MS-DOSは何処だ!?という疑問が沸き上がった。確かにコンピューター起動時にMS-DOS Verx.x等と出てきてはいるが、ハウツー本に載っているようなコマンドがない。そう、違法コピー物の一太郎に付いていたおまけMS-DOSしかなかったのだ。これはイカン。かなりイカン。と重度のイカン的反省のもと、MS-DOS及び一太郎などをぼんぼんと購入した。コマンドを一つ一つ覚え、理解し、着々とautoexec.batやconfig.sysのタツジンとなっていった。

 高校を卒業し、家業を継ぐために写真の勉強のため上京。貧乏そのものの生活だったため、ラボや式場の写真室などでアルバイト。このころビル清掃をやったり、警備員やったり、バーでシェーカー振ったりとにかくいろいろなバイトをやった。その中でも時給が高かったのがパソコン講座の講師。特別な資格というものも必要なく、かんたんなテキストに基づいて進めていけば良かったので僕にもできた。電源オンからはじまってMS-DOSの理解、config.sysの書き換えまで。いろんな笑い話があったけれど、書き出したら止まらないので取り敢えず話は進む。で、その後講師派遣所のような所からプログラミングの仕事をやってみないかと言われ、さらに「全く経験無しでも学びながらでいい」というので、断る理由もなくその頃はかなり有名だったソフトハウスに3カ月勤務した。勤務と書くとなにかエラソーな感じだけれども実質は、プログラムのオベンキョーとその他ザツヨー係だった。それでもC言語の「さわり」程度は扱えるようになり、結構その後のコンピューターライフ?というものに役に立っていると思う。結局、極度の疲労感に耐えられなくなり3カ月で辞めたけれど、あのままやっていたらパソコン方面の仕事に就いていたかもしれない。


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