Macintoshのおはなし・そのに

Macintoshとの出逢い

 東京にいた頃、市内通話で繋ぐことが出来るという地方出身者には大変魅力的な条件もあり、有線のパソコン通信にのめり込んでいった。PC-VANというサービスに1200ボーのモデムで接続し、最長28時間繋ぎっぱなしという事もあった。そしてPC-VANのQLDというSIG(と言うんだっけな)で源氏名「魔女」と知り合った。その発言には僕の知らないコンピューター世界があった。そしてしだいに感化されていった。QLDという集まりは結構周りから見るとズレのある場所だったと思う。「魔女」さんは、ちょっと書き込みがキツく、そのため常に何らかの喧嘩らしきものに首を突っ込んでいた。今思えば、それも含めて彼のミリョクであったように思う。そして、彼からたくさんの事を学ばせてもらった。帰郷して写真漬けの毎日を送っていたある日、「魔女」さん永眠のメールが流れてきた。バイクの事故だったそうで、通夜には通信仲間の膨大な弔電が届いた。思えばあの頃、僕はぐんぐんともう一歩先のパソコン使いに成長していった時期であったのだなぁ。

 書店でなにげなく「MacPower」という雑誌の創刊号を買った。今でこそMacintoshは日本語で使えるのが当たり前だが、当時は新機種が出ても少なくとも半年ぐらいは日本語環境が揃わなかった。雑誌の内容もかなり英語的部分が多く、まもなく「どうやらマクドナルドのコンピューターではないようだな」ということがわかり、それでも英語のコンピューターは僕には関係ないやぁと思っていた。

 しかし毎日少しずつ「MacPower」の内容を解読していくうちに「もしかしてコレハコレハコレハコレハ」という気持ちになっていった。アイコン、ゴミ箱、デスクトップ、中でもハイパーカードに大いに興味を引かれた。当時の僕の周りにはコンピューターショップなどというものもなく、Macintoshを持っている人も、知っている人もいなかった。「何処で買えるのだ!」「どれを買ったらいいのだ!」「いくら用意すればいいのだ!」とノダ星人化して関係する雑誌書籍を毎日毎日徹夜で読んでいった。札幌のキヤノン販売に聞くと殆ど値引きはナシということで本体IIcx、プリンタや増設HD、RAM8MB等の見積で150万を超えた。「狙いは通販だな」ということになり雑誌の広告欄とのにらめっこの日々が続いた。驚くなかれ、ここに至るまで未だ現物を見ていないのだ。価格の折り合いがつかず、悶々とした日々を送っていたある日、IIciという新機種が発表された。発売ではなくアメリカでの発表だけだったのでかなり不安だったが、東京のMacに力を入れている販売店で漢字Talkを後から無償で提供してもらう約束をして、ついに現物を見ないままトータル120万の買い物をしてしまった。

 その当時のMacintoshはまだ再利用段ボールではなく美しい箱に入っていた。段ボールには林檎のマーク。知らない人は、青森あたりから林檎が送られてきたと勘違いするだろう。箱を開けると「ReadMe First」という説明書のようなものが出てきた。訳すと「最初におよみください」というなんていうことのないフツーの言葉なのであるけれど、何とも言えないワクワクする気分になった。これがアップルというメーカーの思想なんだぁと梱包を崩しながら、笑いが止まらなくなっていった。

Macintosh中毒

 まわりの人々は「あん?マック?なにソレ?なんで98じゃないの?」という?マークだらけの反応だった。しまいには「馬鹿じゃネーの」とまで言われた。そりゃそうだ。98なら3〜4台買えてしまう値段だし、軽自動車などもラクラク買えてしまうのだ。もう一つの憧れであったNTX-JというDTPブームの火つけ役とされるPSプリンターは、確か170万ぐらいしていた。そう、カローラなどが買えてしまうのである。しかし、プリントアウトしたい身にとってはカローラなど買っても意味はなく、高額であるにも関わらずベストセラーとなったのである(これしかなかったという現実はあったけど)。僕はさすがにこのプリンターまでは買えなかったが、レーザープリンターを本体と一緒に買った。いまでこそ低価格になってきたレーザープリンターであるけれど、当時は黙って30万から40万だった。どうしてもレーザープリンタが欲しかったので、かなりのマガイモノというか無理矢理っぽくMacintoshにつながるというレーザーを15万円で買った。ドットインパクト方式しか知らなかった身にはとてつもない「贅沢品」だった。

 もう、MS-DOSの呪文ドロドロの世界に戻ろうとは思わなかった。日本人には真似の出来ない思想が沢山詰まっており、今まで苦痛そのものであったOSの操作だけで楽しく徹夜できるのである。ソフトウエアもいわゆる98べったりのメーカーがつくったものとは一味どころか百味も千味も違っていて、いわゆる「買う気」にさせるミリョクテキなソフトが大量に流通していた。マックライトからはじまりエクセル、マックペイント、ドローその他大量のINIT、CDEVに毎月の給料のほとんどが注ぎ込まれていった。この時すでに「ケケケケッ、キューハチ使ってるやつらは馬鹿よのう」という思想瞑想空想奇想などが固まっていったのは言うまでもない。

 その後念願だったスキャナ(EPSON GT4000)を購入。しばらくはペイントソフトで遊ぶ平和な日々が続いていた。とりたててMacintoshに向かい、難しい顔をしてナニカを生産し、利用すると言うようなこともなくただただ遊び道具であった。その後噂で、どうやらMacintoshで写真を操作し、出力まで出来るらしい。ということを知り「ここまで来たらやったるわ」と大枚はたいてPhotoshopを購入した。ダークルームレスという言葉がチラチラと聞こえたが、それはあまり信用していなかった。当時は出力環境が全くなく、モニターに表示して喜んでいるか、無理矢理CRT画面を撮影して紙焼きしたりしていたのだ。コダック辺りからかなり綺麗なプリンタも出ていたことは出ていたが、我々一般ユーザーには全く無縁な価格帯であった。都会ではそれらの出力だけを依頼できる所があると聞いて、逆上していった日々があった。

 出力に対し、悶々とした日々を送っていた時、安瀬君と出会った。彼は高校時代の同級生だったが、その頃はお互い知ってはいるもののとりたてて友人というわけではなかった。そんな彼がある日僕のIIciを見にきた。彼は「これだこれだこれだこれだこれだ」と百回ぐらいわめきつつ、即座にLC520を買った。まるで即決裁判を見ているような速さでMS-DOSを捨てていったのだ。Macintoshの布教活動は、ただただミセルのみで良いのである。あとはそのヒトのものの価値基準が合致すればMacを買わす事などたやすいのである。彼は見事に方程式にハマり、PSプリンタを買うまでに至った。そして現在は200MHzのパワーマック使いとして、知っているヒトは知っているMacintosh Junkieとなった。

 僕はというと、Macが仕事に使えるとわかってからは展開がはやかった。この先の話は「写真館のデジタル日記」および「写真屋のダブン」に書いてあるので、興味の沸いた奇特な方は読んでやって下さい。


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